神田川人工流路説 その11 お屋敷山古墳の謎に挑むより
もし、永福寺池がかつて実際に存在し、それが、これらの池と同等の規模をもっていたならば、その形状も同様のものであったのではあるまいか。
周溝を持つ、古墳上にはかって家が建てられたことがあったと の記載も、お屋敷山古墳が池中の弁天さまであった推論に沿う。
「ああっ、そうか!」
「なに?」
「漠然と、池とは大名屋敷の庭園にある池ぐらいの規模を想定していて、それが寺の境内にある光景を想像していた」
「違うの?」
「確かに、井の頭池、善福寺池などと同じようなもっとスケールの大きい池と想定した方が良さそうだ」
「なぜ? 小さい池かも知れないじゃないか」
「そんなのは無数にあったと思われるからだ」
「なるほど。わざわざ書いてあるってことは大きいというわけだね」
「そこでポイントは、下高井戸の低地は神田川の流域としては広すぎること。その説明が付いていなかった。しかし、池があったとすれば理解可能だ」
「今は無いよ」
「農地に化けて、そのまま住宅地化したのだろう」
「いかにも浸水しやすそうな住宅地だね」
「実際、向陽中の校庭は水はけが悪くジメジメしていることが悩みの種だった。もともと池の底なら当然だ」
「卒業生だから語れる向陽中だね」
オマケ §
「ちなみに、鈴木さんも多かったが、吉田さんも多かった」
「それで?」
「まさか富士吉田あたりと関連が出てくるとはなあ」
つまり、畠山重忠の一族、江戸重永が富士吉田あたりに流れ、それが、下高井戸に寄りたのが、現在下高井戸に多くあられる吉田さんのご先祖さまということだ。
「富士吉田って行ったことがあるの?」
「忍野八海とかな。あのへんは行ったことがあるぞ」
「遠くに行ったつもりがお釈迦様の手の中だってことだね」
「畠山家との関連まで出てくるとはね」
「たかが郷土史なのにスケールがでかくなったね」